矢口 新(やぐち はじめ) 1913年2月7日 ~ 1990年3月13日
自ら調査し、学習システムや教材を開発・実践した。常に実証的な研究姿勢をつらぬいた教育研究者。
1937年東京帝国大学文学部教育学科卒業後、岡部教育研究室、中央教育研究所、国立教育研究所における研究活動を経て、1968年財団法人能力開発工学センターを設立。
以後20数年にわたり、「知識ではなく行動能力を育てる」ことを目標とし、「講義による受け身の授業」から脱し「探究的行動学習」を提唱。産業教育・学校教育の現場で、学習プログラム、構案教材、訓練シミュレータの開発と教育実践を行い、また学習システム設計・指導者の育成に力を注いだ。
1990年現職(常務理事・所長)で、77歳にて逝去。
≪矢口は何を目指したのか≫
“実践人”の育成 /“脳の働き”を育てる学習システム
時代を読み解く力 / 生涯“学習” / 発展途上の国々への支援
1913年、父(税関官吏)の任地である朝鮮咸鏡北道新阿山にて生まれる。
1921年、父の死去により母・妹と共に帰国。以後、一家の長として愛知県名古屋市で生活する。
東海中学校、第八高等学校を卒業した後、上京し、1934年より東京帝国大学文学部教育学科で学ぶ。
東京帝国大学3年のとき、教育学科の助教授として海後宗臣(のち教育学教授、日本教育学会会長)が赴任。この海後との出会いが、矢口に研究者の道を歩ませることになる。
1937年同大学卒業、同じ年に東大内に創設された岡部教育研究室*の研究員となり、「自由と批判的精神のもとにビジョンを描くのが研究である」とする海後の指導のもとに、「日本社会の実態研究に基いて教育のあり方を研究する」生活をスタートさせた。
岡部研究室では、教育を「現実を土台としながら未来を招くもの」として、農村や都市の勤労青少年の生活実態調査に基づき、教育のあり方を設計・提案していった。
*岡部長景(外交官、貴族院議員)の援助で東京帝国大学図書館内に開設された研究室。
5年間の軍隊生活を終えたのち、1946年、恩師海後宗臣、盟友飯島篤信とともに岡部教育研究室を改組し中央教育研究所*を立ち上げ、研究員となる。
中央教育研究所においては、戦後初期のカリキュラム自主開発運動を牽引した。埼玉県川口市で行われた地域の実態調査に基づく社会科カリキュラムの開発に中核メンバーとして参画、世に知られた「川口プラン」(1947)を発表。つづいて埼玉県比企郡三保谷村(現・川島町)で、自治活動、特別活動を中核にした総合カリキュラム「三保谷プラン」(1948)を開発した。
また、子どもの学習活動のしかたを示したり、社会の実態をつかむための分析用教材としての映画活用を提唱。自らも映画教材「私たちの学校」「綿紡績」「おかあさんの仕事」などを製作し、視聴覚教育運動を推進した。
*中央教育研究所:三井報恩会の後援により設立された民間の教育研究機関。
http://www.chu-ken.jp/
1950年より矢口は飯島と共に国立教育研究所に招かれ研究員となった。(研究調査部教育内容室第二室長。中央教育研究所員兼務) 同研究所では、小・中・高等学校の教育課程実態調査、学力水準調査、青少年教育調査など、教育内容の調査や、授業の記録分析などを精力的に行った。
また、地域の生活から組み立てるカリキュラム編成について、水海道小学校(茨城県)や北加積小学校(富山県)に於いて、現場教師たちと共に十数年にわたり実践研究を行った。
並行して、戦後の地域教育計画のさきがけとなった「富山県総合教育計画」の立案と実施に参画、15年にわたり、地域の課題にとり組む実践人の育成を目標に、座学と実習を統合したカリキュラム、通信制・定時制の高校、教育サービスセンター(後の産業教育館、科学教育センター)など、全国に先駆けた様々な施策の実施を指導した。
矢口の研究は、視聴覚教育の研究、特に子どもが社会を探究する活動の対象となる社会科教材映画の企画、製作、普及、つづいて、一人ひとりの主体的な探究活動を促すプログラム学習の研究と教材開発にも及び、1962年には「全国プログラム学習研究連盟」を組織し、委員長としてプログラム学習の学校教育や産業教育への展開を推進した。
1965年に国立教育研究所を退官し、日本生産性本部内に「プログラム教育研究所」を設立。1968年に同研究所を発展させて、財団法人能力開発工学センター(科学技術庁、後に文部科学省所管)を設立、主体的行動力をもった“明日をひらく人間”の育成をめざし、学習方法の実践的研究と普及に力を注いだ。
産業技術教育の分野においては「理論と実習を統合した協働的技術学習のシステム」を提案し、自らその開発にあたるとともに、開発・実践にあたる人材育成に努めた。学校教育の分野においては、探究的能力の育成方法の研究に力を注ぎ、グループによる行動的探究学習を提唱した。
*能力開発工学センター http://jadec.or.jp/
1990年に矢口が逝去した後も2016年まで継続。現在は任意団体として矢口の考え方を普及するための活動を続けている。
「日暮れて道遠しだなあ」最晩年、病床にある矢口新がふともらした言葉である。
矢口が普及に力を注いだプログラム学習*は、学習時間の短縮効果により、高度経済成長期の産業界の教育ニーズにマッチし、多くの企業に受け入れられた。能力開発工学センターが開催した学習システム設計者養成セミナーから送り出した卒業生たちは2000人を超えた。
しかし、矢口が本当に目指したところの、「学習者が主体的に行動的に学ぶ場」「学習者の探究行動の対象となる教材を備えた学習システムづくり」は、効率性・低コストを是とする産業界とは相容れないものがあり、一部の企業を除いては広がりを見せなかった。ひも付きの資金をこばみ、自ら稼ぎ出した資金での研究を続けた能力開発工学センターは常に財政難、閉鎖の危機と背中合わせであった。
そうした中で、矢口が最後まで取組んでいたのは、コンピュータ・リテラシー学習であった。コンピュータは今後の社会における仕事のあり方を変えるものであるとして、早くから強い関心を持っていた矢口は、その学習として、単なる操作の仕方やプログラミング言語の習得ではなく、その動作原理の本質をつかむ学習を行うべきだと考えていた。構案教材**を使っての「回路形成→システム実現」を通じて、コンピュータの仕事の論理を探究していくコンピュータ・リテラシー学習、その開発と普及に最後まで情熱を注いだ。
矢口の最後の論文は『日本における科学思想』(能力開発工学センター研究紀要54~57号、1989年)。日本人の科学的探究姿勢欠如の状態とその根拠について論述したものである。その中で矢口が特に問題としたのは、指導者層における歴史に対する科学的思考の欠如で、それが旧体制への回帰の動きを生み出し、日本社会を正しく指導できない状況になっていると断じている。「哲学は歴史の自覚から生れる」とし、哲学を持たぬ技術、哲学を持たぬ経済、哲学を持たぬ政治の危険性を訴え、その克服を目指さなければならないと主張している。
しかし、その難しい課題達成のための活動にもはや力を及ぼすことができない自分。「日暮れて道遠し」、1990年3月、矢口は無念の思いを抱いて世を去った。
*プログラム学習
教師が多数の学習者に教える一斉学習方式の反省から生まれた学習方式。学習者一人一人が自分のペースでドゥーイング(学習を成立させるための行動)を積み重ねて目標の行動に到達する。ドゥーイングをさせるためにスモールステップのプログラムテキストを用いる。
**構案教材
学習課題の達成を目指して、学習者が主体的、探究的な活動を展開できるように工夫された教材。
矢口は、人間を産業社会(産業を中心として展開される社会)の中で生きる存在と位置づけ、その中で主体的に行動し、あすを切り開く行動力をもつ“実践人”を育てることが教育の目標であると考えた。
そのためには、教育そのものが、知識を教え伝える「教育」から学習者が主体的に活動する「学習」に転換されなければならない。さらに、「学習内容」は学習の第一目標ではない、学習は「そのことを知る(わかる)」ためではなく、「ものごとを探究するための行動のしかたをつかむためのもの」である、と考えた。そして矢口はそれを具体的な活動で示した。
戦後初期の社会科カリキュラム研究では、地域社会や生活における問題を分析し考えるカリキュラムを組み立てることを提案、知識を伝達する教育から子どもたちを行動させる教育へ、読み物であった教材を子どもたちが観察したり調べたりするための行動対象へと切りかえるよう、教員たちを指導した。
能力開発工学センター時代に力を入れた科学的分野では、“目に見えない電気”と、“処理過程の見えないコンピュータ”をテーマに、それらが如何なるものか、探究的に調べていく学習システム(学習プログラム+構案教材)を自ら開発し、その実践と普及に力を注いだ。
また、産業現場や技術分野においては、対象となる現場システムや技術に対して、学習者が探究的・分析的に対決しシステムを掌握し技術をものにしていく学習を設計し提供した。
学習の設計にあたって、矢口が常に問題にし、力を入れたのは「孤独の学習からの脱出」だった。受験勉強のように他と争って勝ち抜く力ではなく、学び合いし助け合って課題に立ち向かう力、それこそが明日を切り開く力になると考えていたからである。矢口は、学習の形の基本をグループ学習におき、一人一人が主体的に活動しながらも、協働して課題に立ち向かう、そうした学習の場を提案し続けた。
≪行動分析≫
「知る」ことではなく「行動できる」ことを目標にした矢口は、1950年代後半から脳の働きのメカニズムに目をつけていた。
脳は、行動したときに起こる脳の回路の電気的興奮の状態を記憶する。したがって、脳が目標の行動を成立させるための働き方を獲得するためには、脳にその働きを成立させるための行動を経験させることが必要になる。1960年代後半から、矢口は、表現された行動の観察から、そのときの脳の働き(行動の場や対象に対する測定行動、またそれらの構造関係)を分析し、それに基づいて、脳の働きを育てるための学習行動とその積み上げ方を設計するという方法を考案、様々な学習システムをつくりあげていった。
矢口は「人間を育てることを考える上で、それ(脳の働きのメカニズム)を土台に「する」と「しない」では「科学」と「非科学」との違いがある」と述べている。
≪構案教材/シミュレータ≫
学習システムを構成するものは、学習プログラムと構案教材・シミュレータである。構案教材というのは、学習者が主体的に計画し活動して課題を解決していく手助けとなるべく設計した教材であり、シミュレータは目標とする行動や論理をシミュレートするための道具や装置のことを言う。そしてそれらの使い方や、学習の目標や課題に向かっての行動の積み上げ方を案内するものが学習プログラムである。
矢口は、教材は教師が教えるための道具ではなく、学習者自らがそれを使って主体的に行動し、目標とする考え方や視点を獲得し課題を実現していくためのもの、目標の行動をシミュレートするためのものと考えていたのである。
矢口は、教育は「その時代に必要とされる行動能力」「明日をひらく力」を育てる働きを持たねばならないと考えていた。そしてそのためには「その時代を読み解く能力」がなければならないと考えていた。
そのため、長年にわたり『教育の近代化展』(視聴覚教育協会主催)の企画を担当する傍ら、能力開発工学センター主催の研究集会・シンポジウムを毎年のように開催、教育研究者、教育担当者が考えねばならない問題を提起するとともに、互いの実践を報告し合う場をつくった。
1975 ゼロ成長社会における教育訓練のあり方を探る
1978 転換期における教育問題を考える
1980 組織集団の活性化と生きがいをいかにして生み出すか
1981 転換の時代の労働と生きがいを考える
1982 産業国際化時代における新たな産業人の形成を考える
矢口は、人間は学習し成長する存在であること、仕事の中でまた生活の中で、生涯を通じて自分自身をみがくことの重要性を説いた。所属機関における義務としての仕事に留まらず、仕事を離れても教育について考え続けていってほしいと、1978年、能力開発工学センターのセミナー修了者を中心に、学校・企業の枠を越えて協働的に学ぶ生涯学習の場として「ADE研究会~本物の教育を考える会~」*を結成した。教育問題を中心に、家庭、社会、政治、経済、国際問題などを広く探究するワークショップを開催。研究会報「アドヴァンス・サロン」を発行した。矢口は名誉会長としてワークショップの司会を務め、またアドヴァンス・サロンのメイン執筆者として活動した。
*ADEは、ability development engineering(能力開発工学)の略。